「あたり前」だったあの日

今日はちょっとした捜索から、古い写真を引っ張り出してみる。
ダンボール2箱から出てきたのは
撮り初めの1枚からはじまる、15年前の鉄道風景。

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 <中原区 クモハ12053(1993/07/07・鶴見)>
家でホコリをかぶっていたF2を最初に持ち出したのは、中学入学の前日。
無事“鉄研”で仲間を見つけ、はじめて連れ立って出掛けたのは試験休みの7月のこと。
あいにくの曇り空だったものの、これまた初めての「旧国」に感激したのを思い出す。
このころ、クモハ12はまだ“変わらぬ日常”を過ごしていた時期で
窓につけられた格子と引換えに、鶴見-大川・海芝浦でその姿を見ることができた。

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 <キハ38を先頭に金子坂を登る5連(東飯能→金子・1994/07/19)>
仲間と出かけることが次第に増えて、足を向けるようになったのは八高線。
電化計画が動き出して撮影地ガイドが鉄道誌に載ったのがきっかけで
東京都内とは思えないロケーションの中を行くキハ35やDD51を追ったっけ。
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 <お召し予備機になるのはこの8年後(拝島→小宮・1994/07/19)>
旅客列車の時刻だけ見て移動を開始したら
直後にDD重連の音が聞こえてきた…なんてのも懐かしい。

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 <検査上がり後すぐのピカピカ姿(1994/08・大井工場)>
毎年の工場公開で見られる車輌もずいぶんと入れ替わったものの
今もまだ“主”とでも言うか、大井工場の移動機械「たんぽぽ」。
101系最後の800番代、クモハ100-802は車体長が6m短くなった上に
いるのはいつも向こう側でマトモな写真を撮れたためしがないのです。
コイツは今でもちゃんと使われてるのかな?

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 <115系はスカ色がイイ!(1993/11/21・高円寺→阿佐ヶ谷)>
休日臨快の中でも「ホリデー快速 ピクニック号」というと
八高線へ撮りに行く足としてもよく使った列車。
<三鷹区165・169系で運転>と書かれたものの本を信じて行ったら
「115かよ…」と落胆したことも。
どちらかというと撮るより乗る列車だったので、115系はこの1枚しかなかったかも。
先頭は山用の証・パンタ部低屋根の“800番代”を含む初期車3連。
8年後に彼らがヤマを下り、まさか海沿いに再就職するとは思ってもみなかった。

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 <クモヤ143と並び!静シス K2編成(1994/05/11・国府津)>
そして、中学時代いちばん熱を上げていたのが165系。
とにかく出掛ける目的地か途中経路には必ずと言っていいほど急行形が絡んでいた。
試験期間中で早く学校を追い出された日には、まずは品川で302Mを見て
小銭さえあれば、急行券の刻み50km・100kmで行けるどこかまで303Mに乗る、なんて事も。
今でも「375M」と聞くと『大垣夜行』と思うし、あの振動とモーターのうなり音に浸ることができる…。


…と、こんなに懐かしんでばかりじゃなくて撮りに行こうか!と思い直すが外は雨。
そろそろ夏至だし、朝の東金行かなきゃな~と思い続けて空を見上げる。
いっしょになにが撮れるかな?と楽しみなのだけは、今も昔も変わらないのでした。

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この記事へのコメント

2008年06月22日 10:28
いやぁ~,何もかもが懐かしいですナ.
私も急行東海は大好きな列車でした.
ピクニック号の山スカは,簡易シールドビーム車ではないですか!
八高線の貨物も懐かしいし,DC5連も圧巻.電化後,キハ38が久留里線に行くのは予想できましたが,115系の伊豆急譲渡は,誰もが考えなかったですよね.
2008年06月22日 12:42
どもども、ありがとうございます!
これが全部イベントじゃなく定期列車だったんだなー、と。
見回せばまだいくらでも魅力的なシーンが見られた時代でした。
15年後、今の鉄道風景もまたそう思えるといいですよね…。

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